【幻の光】残された者。美しい日常。
1995年の作品とは思えない(古臭さがない)。
(ちなみに是枝監督は1991年頃からドキュメンタリー番組の制作をしていました)
ストーリーは、夫を失った妻の喪の作業なのだそう。
でも、その前後出来事、彼女の心の揺れ、風景ばかりに目がいって
一体どれが「作業」なのか・・・
まず、130分と長めです。諦めないで観てみてください。
冒頭、おばあちゃんが元気に「死にたい」と言いながら失踪するシーンに始まる。
おばあちゃんは結局帰ってこなかった。
ゆみ子は最後に話をした自分が引き止めていたら、と後悔する。
大人になったゆみ子(江角マキコ)は、男の子も生まれ、幸せな日々を送っていた。
夫(浅野忠信)との何気ない会話やシーンは、本当に仲むつまじい。
ある日警察が来て、電車に轢かれた男がゆみ子の夫ではないかと告げる。
事故ではなく、線路の上をただ歩いていたとかで、「自殺」という処理だった。
仕事も順調、子供が産まれ、妻に不満もなく、幸せな日々を過ごしていたのに
なぜ夫は自殺をしたのか。
自分に何か悪いところがあったのだろうか。
知らないうちに追い詰めていたのか、ゆみ子は後悔の念に苛まれる。
この後(息子が大きくなっていたので4、5年後?)
ゆみ子は知り合いの紹介で、よく知らない男(子持ち)の家に嫁ぐ。
現在の私たちにしたら「夫を嫌いになって別れたわけでもないのに、よく他の男と・・・」
と思うかもしれないが、
原作は1978年、まだ一般女性が自ら働いて一人で子供を育てるには大変だったのかもしれない。
再婚相手の民雄は不器用ながらとても優しく、民雄の娘と義父とも穏やかに過ごす。
ゆみ子は近所の人ともうまくやっており、全てが順調に見えた。
けれど「理由なく自殺した元夫」のことが頭から離れないのだ。
何か起きるたび、自分のせいではないか、愛する人をまた失うのではないか
様々な念に押しつぶされそうになり、独り海へ向かうゆみ子だった。
***
まず、全篇映像がとても美しい。
印象的なのは止まっている風景に動く物体が飛び込んでゆく描写。
トンネルに自転車でスっと入っていくゆみ子。
駅を過ぎてゆく電車、遠くを過ぎる船。
何度も同じような構図が見受けられるけど、全然嫌味じゃない。
美しいといえば、義理の兄妹が2人で家の近くを散歩(探検?)するシーンがあるのだが
非の打ち所がないくらい美しい。
是枝監督は子供を撮るのがお得意のようで。
次に、「何度も繰り返す」という表現がそれこそ何度も出てくる。
いなくなった祖母。
いなくなった夫。
さらに近所の元気なトメノ婆さんまでいなくなった。
自分の周りの愛する人が失われていく悲しみ。
「トンネル」の描写も数回出てくる。
違うシーンでれぞれ違う人物がトンネルを通るのだ。
人生は長いトンネルである。
トンネルを抜けたときは穏やかな死が待っている・・・のかな?
印象的なのは最初のほうで幸せに過ごしていた頃の夫が
商店街を抜け、電車の横を通る。
ふと電車を見る。
このときの音楽が、最初はとても穏やかでメロディックだったのに、
電車のところだけハラハラするような音楽に転じる。
それと同じことが、夫を亡くした後のゆみ子のとき
(自転車を運転する際の描写)にも使われる。
同じ町に住み、同じルートで電車を見るのだから
しょうがないことではあるのだけれど
この街にいる限りは、ゆみ子は深く沈んだままで息子が不憫だ。
トメノ婆さんと何気なく息子の話をしているとき、
息子はちょっと離れて停めてあった自転車をいじっていた。
死んだ夫が乗っていた自転車と同じ色の自転車を。
私の考えであるけど、恋をする相手と生活を共にする相手は違うと思う。
ゆみ子はとても幸せそうだった。
夫にあれこれ世話を焼いて喫茶店にいくのを楽しんだり、
叶ってしまった恋より、追っている恋愛は楽しいものだ。
「死んだ夫」は少し子供っぽかったように思う。
自転車を「盗まれた」から、他の自転車を「盗んできた」というエピソードや
妻が銭湯へ行ってた間も、赤ちゃんをちゃんと見てたんだかよくわからない感じ、
自由奔放でまだあどけない、という感じだった。
対照的に、新しい夫(内藤剛志)は穏やかで優しく、荒々しさがない。
穏やかな生活。
本当はそれが一番幸せだと思う。
言わないだけで、みんな悩みを抱え、モヤモヤしながらも毎日をやり過ごしている。
それは長いトンネルじゃないだろうか。
トンネルからは見えている。幻の光が。
原作は宮本輝
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